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「私と柔道との思い出」

昭和33年卒  吉留啓介

 平成9年10月初めに開催された、全日本学生柔道大会に、母校の応援の為、東京九段の武道館に出向いて見ました。母校の後輩たちと顔を合わせるのは何年、否、何十年振りのことで、勿論、現役の柔道部員の人達とは、誰一人面識ありません。大学を卒業して39年有余、当時は神戸市の大会にすら優勝することが容易でなかった事を思えば、全国大会に出場した後輩達を見て全く隔世の感じがする。特に、今回は関西の雄、同志社大を破っての出場は、我々の現役時代、同志社大に勝つなど夢又夢で考えもして居なかった事だけに、後輩達の頑張りと、部員を指導された先生方の御努力には頭の下がる思いがすると共に、全国大会の桧舞台に母校の姿を観戦出来た事は、非常に嬉しい出来事で、後輩達には本当に感謝しています。

 熱気に囲まれた武道館の中で柔道部の若い後輩達に囲まれて応援している内に、40年近い年月を飛び越え、薄くなった頭の事も忘れて、学生時代に戻った様な気分に浸らせて貰い、当時の事が走馬燈の様に懐かしく想い出されました。試合後の懇親会も、サラリーマンとして接客の酒席の多かった私には、久し振りに、リラックスした気分を味わうことが出来ました。後輩の諸君どうも有り難う。

 先日の全国大会出場で後輩達と顔を合わせた事もあってか、「竹蜻蛉」に投稿依頼が小生の所に来た。文章と云うものは、最も苦手とする所だが、これも何かの縁と思い、つたない文章ではあるが、柔道に関して、私自身の想い出を書き並べて見ることにしました。

 私が柔道を始めたいと思ったのは、中学校の時で、若干動機に不純な点がありますが、体が小柄な為、強くなりたいと言うのがその動機でした。しかし、第2次世界大戦の終戦間も無い当時は学生の剣道、空手、柔道等の武道に関する部活は禁止とされて居り、柔道を習う事が出来なかった時代でした。甲南大学入学当時甲南大には柔道部と言うものは無いものと、勝手に思い込み、高校時代にやっていたテニス部に入部も考えましたが、当時テニス部は全国レベルにあり、レギュラーになる可能性は無しと諦めました。そして卓球部への入部を思い立ち入部届を同部に提出しましたが、体育館内の卓球部の隣から気合いを発する声が聞こえ、(後から判った事だが気合いの主は田渕先輩〔現田渕海運社長〕の声だった)覗いて見ると先輩方の練習真最中で、それを見て慌てて卓球部への入部申込書を破棄して柔道部に入部した次第です。この為、卓球部の人達に冷やかしで入部届を出すなと、こっぴどく怒られた事を憶えています。

 柔道部在籍4年間には色々な想い出があります。もう時効だから云えるでしょうが、講道館合宿時、東京の旅館で、夜、観光客の一団と大喧嘩になった事もありました。全く若気の過ちでした。又、東京渋谷の居酒屋で柔道部の仲間と柔道の話に花を咲かせてビールを飲んで居た時、突然注文もしていないビールが5本テーブルに運ばれて来ました。驚いてウエイターにたずねると、隣の席に居た中年の男性客が帰り際にビールを我々に届ける様に指示されたとの事。多分、我々の話を聞いて居た柔道関係者の人と思われますが、小遣いに不自由していた学生の我々には非常に有り難い話で、会ってお礼を言いたい気持ちをこの40年間持ち続けては来たものの、今だに何処の誰だか判らずじまいになったままです。

 その他、柔道部の練習中、校庭一周の駆け足で、ホイサッサ、ホイサッサと掛け声を掛け、後藤先生に怒られた事など今は懐かしい想い出です。

 大学卒業後、サラリーマン39年有余の間私自身神戸生まれの神戸育ちでありながら皮肉なもので、只の一度も関西で住んだ事無く、当時、神戸に本社を置く某船社に転職してからは、入社式当日に海上勤務として貨物船に乗船、以来3年、外国航路の船員(事務系)として、アフリカ、オーストラリア、北米等海外の港を廻り、下船後は、名古屋東京−南アフリカ−東京−ロスアンゼルス−東京と地元の関西だけをバイパスする転勤生活でした。

 海上勤務時代、オーストラリアのアデレード港に於いて、現地のカンガルー柔道クラブから試合の申し込みを受け、船員の中から私を含めて7名を選抜して試合に臨みました。結果は、3対1で我々の勝利でした。私自身も大学卒業後全然練習をして居なかった為、短時間で勝負を付けないと勝ち目無しと判断し試合開始早々に思い切って飛び込んだ左内股が相手の油断もあったのでしょうが、一発で決まり、日本柔道の面目を保ったと、一人で満足感に浸ったのを憶えています。現在は柔道も世界的になり、各国に強豪がひしめいていますが、当時は未だ日本のお家芸として外国人に負けるのは恥と云う感覚がありました昭和33年当時は外貨持ち出し規制もあり海外旅行など夢物語の時代で友人や知り合いから相当に羨ましがられましたが、船酔いと戦いながらの船上での仕事は想像以上に辛く並大抵のものではありませんでした。そうした事の中で、ともすればくじける気持ちを支えてくれたのは、柔道と言う二文字で、柔道をやっていて良かったと思った事がありました。下船後、名古屋支店勤務となり、名古屋の町道場に2年程通いましたが、会社の同僚や悪友の酒の誘いに勝てず、その後は柔道との縁も遠ざかる様になってしまいました。

 その後、柔道に再び引き戻されたのは、南アフリカのヨハネスブルグ勤務の時でした。同国駐在3年を過ぎた頃、ヨハネスブルグの或る大学の柔道部同好会より、練習に立ち会ってほしい旨、要請を受けたからです。大学時代に使っていた柔道着は私にとっては想い出深い大切なものなので、南アフリカに赴任する時も持って行きましたが、まさかもう一度、柔道着に腕を通す事があるとは、思っても見ませんでした。柔道部員約30名(殆ど白人)との練習に立ち合っていた時、或る学生から、柔道と言うとスポーツは日本でもポピュラーなものかとの質問を受け、妙な事を言うと思い聞いてみると、柔道の発祥地はヨーロッパだと思っている者が少なくないと言う事が判り、いささかびっくりした事があります。

 大学4年間、柔道部に籍を置いて、真面目に一生懸命練習したかと問われると返事に困る私ですが、いずれにせよ柔道をやって来た事が社会人としての生活(特に若い時の)の中で、色々と精神的な支えとなって来た事は事実です。大学卒業後、前記の通り関西素通りの転勤生活だった為、先輩、後輩諸共御無沙汰ばかりでしたが、今後は出来るだけ、交友を深められればと思っています。来年も又、後輩の諸君と武道館で会えるのを楽しみにして居ます。

 

 

昭和35年卒

 大谷智章

 甲南大学を卒業したのは昭和35年の、すなわち1960年、今から37年前の事であった。此れ迄多忙な仕事に追われ、柔道部の先輩及び後輩の皆様方とは全く音信不通であったが、後輩の永井都氏より、突然電話があり、今回初の全国大会団体戦に出場出来る事になったので是非東京の武道館まで応援に来る様にとの嬉しい知らせがあった。

 前日銀座の和光前で永井氏と待ち合わせ、久方振りに彼に会い夜遅くまで杯を重ねた。翌日後輩の現役メンバーと会い、試合を拝見した。兎に角驚いたのは、後輩の選手達の骨格が我々の時代とは段違いに大きくなって居る事と、試合運びも我々の時代のものと違った現在のルールに則ったやり方ではあったが、全員それなりの力を出し、1回戦は金沢学院に快勝、血が騒ぎ興奮を覚えた。二回戦は残念ながら東海大に完敗したが、皆良く善戦した。「全国大会に出場」とは誠に立派な偉業であり、我々の時代には考えられない事である。選手のみなさんを始め部員一同に賞賛を送ると同時に山崎師範のご指導の賜物と深く感謝した。

 先輩の吉冨氏、後輩の宇津江氏と卒業依頼の何十年振りかの再会を果たし、感無量であった。試合後、父兄の方々も含め関係者一同で神田で中華料理を戴き本当に楽しい時間を過ごさせて戴き、一気に若返った感を深めた。お招き頂き本当に有難う御座いました。

 戦後柔道と剣道は米国の占領下のあり、GHQのダグラス、マッカーサー元帥により禁止されていた。私が中学二年生の時、解禁となり、柔道部ができた。丁度同じ時期に甲南大学が設立され、大学の柔道部と同じ道場(当時現大学の所在地に中学、高校、大学が同居いて居り、雨天体育場の半分は卓球及び剣道、半分が藁の畳を敷いた道場であった。)での少人数の稽古が始まった。

 当時は現在の様なWEIGHTに依るクラス分けは全く無く、身長170p体重60kgでは殆どの相手は自分より大きな体格の持ち主であり、後藤先生のご指導の基本たる「柔よく剛を制す」の精神に乗っ取り、学内に於ける放課後の練習に加え、帰宅後警察又は町の道場に通い、練習量は他人の2倍を凌駕した。中高時代は早弁は勿論の事、昼休み、休講時等は必ず相手を見付けて新しい業の研究を行った。

 体重を増やしたく、学校での練習の帰り道、省線(現在のJR)の摂津本山駅の阪急岡本駅へ行く分かれ道に「甲南ミルクホール」と言う所に立ち寄り、同僚達と牛乳5合瓶を飲み干し、きつねうどんを食べてから、芦屋の六々荘の山の上にある自宅迄歩いて帰り、丼3杯から4杯の食事を腹が一杯になる迄取り、又夜遅く迄町の道場に練習に行くと言うのが毎日の日課であったが、体重は一向に増えなかった。

 祖父が元十両まで勤めた関取であり、父(現在90才)は日大の柔道部出身(5段)で三船先生の弟子でもあり、恵まれた環境に育った私は、中学、高校、大学に学ぶ間自宅の庭で本物の稽古まわしを締め父、兄と相撲の稽古をする傍ら、父が兵庫県の公安委員長も名誉職として兼務していた関係で、芦屋警察、尼崎の天崎道場の通い、夏、冬、春の休み中は合宿の合間をぬって東京の講道館に通った。中学3年で憧れの初段が取れた。

 得意は右の大外落としと払い巻き込みであった。身体が小さく軽量であった為、二段を取るには父に言われて左右どちらでも出来る様に練習を重ね、足業を含めてスピードにより大きな相手と戦う事を懸命に練習した。少し低迷期間があったが、大学2年で2段を取り、卒業時に3段が取れた。

 学内での練習は後藤先生、植村先生、浜田師範(いずれも故人)に稽古を付けて戴いた。高校時代であったと思うが、後藤先生と寝業の稽古中、縦四方固めに入る前に先生のあばらを小生の踵が弾みで蹴り、先生のあばら骨にひびが入ってしまい、約6ケ月間先生はさらしを胸に巻かれて稽古場に来られていたが、この事は一言も他言なさらず日々の御指導を黙々と続けられた事に対し、先生に対する責任感は勿論の事、頭の下がる思いで一杯であり、今でも先生の度量の広さは忘れられない。

 卒業後、当時川崎汽船に勤めて居られた吉冨先輩のご配慮で、川崎汽船の貨客船「コロラド丸」に乗せて戴き、アメリカの大学院に留学した。US$1.00=\360の固定相場制時代で、日本から持ち出せる外貨はたったの$250であり、学内食堂での皿洗い等のアルバイトでは時給US$1.00で有るのに対しYMCAで20名程のクラスに柔道を教えると時給$25と食事が付いた。まさに「芸は身を助ける」を実感した。以来駐在5回延べで16年余の在米生活をENJOYし、今でも輸出貿易の仕事に携わっている。

 前述の如く、当時日本の柔道はWEIGHT CLASS制が無かった反面、現在の様な、指導”“注意等のPOINT制は無く、場外に何度でてもPOINTには関係なく、「一本」か「業あり」でしか勝負が付かず、団体戦では引き分けが多く、個人戦の場合は勝負が付くまで「延長」が行われた。

 今回の団体戦で気になったのは、特に東海大の選手は甲南に比較して身体が遥かに大きく団体戦であるが為、WEIGHT分けになっていない反面、試合のルールは現在のWEIGHT制のものを適用している点で大きな矛盾を感じた。WEIGHT制の区分けをせず、昔我々がやっていた通り体格の大きな者も小さな者と一緒に戦わせると言うのであれば、昔のルール(「一本」か「業あり」のみでそれ以外は「延長」で決着を付ける。)を適用すべきであると信じる。此れが本来の柔道であると今でも信じている。

 甲南学園の創立者であられる平生八三郎先生の「知育、徳育、体育」の三原則、即ち勉強ばかりしていては社会に出てから役にたたない。其れよりも「徳育」即ち良く遊び、友達を多く持ち、人の和を大切に人格の養成を行う傍ら自らの身体を鍛え体力を作れは本当の意味で「真の教育」と思う。60才の還暦を過ぎた今、自分の長いサラリーマン生活もほぼ終わりに近づいたこの時期に「幼稚園から大学迄甲南に学んで良かった。又柔道を通じて学んだ事が、自分自身の豊かな人生感の形成の基盤となっている」事を実感し、有り難く感謝している次第である。

 後輩の現役部員の皆様、試合の勝ち負けより、稽古を通じて自分自身を究極までいじめる事で、自分の人間性を磨き人生を豊かに過ごせる様努力して戴ける事を念願する。

 

 

「出会い」

昭和43年卒  奥村 亥久男

 東京生活30年

 昭和43年に卒業、上京、そして現在に至るまで、29年と9ケ月、東京での日々を送っています。

 上京した当初、近くの先輩をたずね、うまい酒をいただき、お宅にころがりこんだ事もありました。

 自分から望んだ東京生活ですが、今考えると少しさびしかったかもしれません。

 平成2年、長男が学習院にお世話になり、入学式の日、懐かしい柔道場を見つけ、開通したばかりの新幹線で定期戦に上京したのを思い出しました。後から伺った話ですが、当時のマネージャー(たしか三浦先輩だと思います)が、大変な苦労をして乗車券を入手されたそうです。現在だと、さしずめ、リニアモーターカーといったところでしょう。

 この道場で1年と3年の時に試合をし、3年の時には、窓ぎわに体落としで及川君に投げられた事を覚えています。(練習ぎらいで、余り誉められた部員ではなかった事を反省)それがきっかけで学習院の定期戦には顔を出すようになり、元気な部員の姿を見る事が楽しみとなりました。

 今年の正力杯では中村君、阿知波君、奥村君、巽君が出場し、見事な試合をし、日本武道館の壁に甲の印(部旗)が見えた時、言葉に出せない感激がありました。

 97年のトップニュースとしては、9月7日の関西大会での活躍でしょう。同志社に完勝し、ベスト8進出、全国大会に駒を進めました。当日の夜、永井先輩より電話を戴き、第一声「奥村、やったぞ」いつもの倍ぐらい大きい声です。

「はい?」

「勝ったんや。勝ちよったんや、同志社に

「えー、本当ですか、すごいー」

「ベスト8やぞ

先輩の声が鼻声になりついつい私も、もらいでした。

 10月初旬、大阪出張の折、時間が空いていたので六甲アイランドの道場に初めて伺い、近代的な体育館の2Fにある大きな道場にびっくりし、女性部員がいる事にソフトな感じを受けました。その後、山崎先生とお話しする機会があったので、現在、世界に普及している柔道が、日本古来の柔道ではなく、スポーツ化した「JUDO」でレスリングのようなポイント柔道に変化している事、そのジャッヂをする審判技術が余りにも低い事などをお話ししていると、山崎先生は、「現在は普及途上で、まだまだこれからが大事で」など、色々なお話をしてくださり、その話しぶりや風格が後藤先生とそっくりなので、亡くなった先生とお話ししているようで懐かしい感じを受けてしまいました。

 現在私は縫製工場に勤務し、西麻布にいます。私のショールームには毎日、ポパイや、ゴリラのような筋肉マンが出入りし、大男の溜まり場となっています。

 それは慶応大学ラグビー部のブレザーと、日大バスケット部のブレザーを仕立てているので、彼らが卒業してもスーツをオーダーに来ているからです。彼らと話していると、甲南柔道部の部員と会っているようで、若者のエネルギーを感じます。最近の若者はだらしが無いというか、礼儀を知らないという人がいますが、とんでもない事で、その人達が、このような、すばらしい若者を知らないからだと思っています。

 甲南大学に入学し、柔道部に在籍した事。

  後藤先生、山崎先生と知り合えた事。

  OB諸兄に出会えた事。

この人と人との「出会い」を大切にして、東京で頑張ってゆくつもりです。

 四年生諸君卒業おめでとう。部員の皆さん、来年も益々の活躍を期待しています。東京遠征には30余名の在京OBに声をかけて応援に行きたいと思っております。

 ガンバレ、美しき伝統 

              甲南大学柔道部

 

 

「卒業後、14年経って」

                                武井 隆義

 私は、昭和59年3月に大好きであった甲南大学を卒業しました。それから14年の歳月が過ぎ去りました。今年、幸運にも私の赴任校である大成高校が全国大会に出場できました。このような折、光本先輩から「竹蜻蛉」の原稿依頼を受け、これまでの道のりを振り返る機会を得られましたこと、大変ありがたく思っています。

 御存知のとおり、私は卒業後青年海外協力隊に入隊し、3年間アフリカのガーナ共和国に柔道の指導に行きました。出発当時、アフリカは飢饉のまっただ中、また、WHOによればアフリカは世界で一番病気が多く、なかでもガーナは群を抜いて病気の多い国であると聞き、元来気の弱い私は不安一杯の思いで出発しました。着任2ヶ月後には、激しい下痢、腹痛に見舞われ、体重も一気に72kgまで落ちてしまいました。食べ物はすべて鳥や豚のえさ同然で、こんなものが食えるか、という気持で、山崎先生や同級生、両親に笑われてもいいからもう日本に帰ろう、と何度思ったかしれませんでした。

 しかし3年後、日本に帰国した時の私の体重は95kg、なんと結局10kgも太ってしまったのです。いっしょにガーナに派遣された隊員の中で、太って帰国したのは私だけです。みんなには、おまえのおかげで食糧不足がひどくなった、とののしられる始末でした。しかし、とにかくガーナが私を強く、たくましくしてくれたことだけは事実です。

 帰国後はすぐに就職活動をしました。私は幸運にも翌年から新設の私立大成高校に就職することができました。教科は英語、もちろん柔道部の指導もすることとなりました。しかし、新設校ということで、何もかも一からやらなくてはなりません。まして成績の良い生徒、柔道の強い生徒が集まってくるわけでもありません。

そんな中で、何年続けることができるだろう、と不安になったこともありました。しかし、その分自分の力が発揮できる場だという、やりがいもありました。

 私はまず、短期、長期に分けての目標を掲げました。それは、@地区大会で優勝すること、A県大会でベスト8に入ること、Bベスト8に定着すること、Cベスト4に入ること、そして、D県大会で優勝すること、です。@Bまでの目標は5年で達成しました。しかし、ベスト4に入るまでには大変苦労しました。毎大会、県の強豪の壁の前にうちひしがれました。もう私には柔道を強くすることはできないと何度も思いました。しかし、「苦しい時には笑うんだよ。」という山崎先生の教えを思い出し、挑戦し続けました。

 チャンスは昨年おとずれました。昨年の本校のチームは今年のチームよりも強かったので、新人戦はあっさりベスト4に入ることができました。続くインターハイ予選では、二位になることが目標となりました。それは今年の選手権大会は第20回の記念ということで県から2校が出場できることが決まっており、そのためには、星城高校と違うブロックにシードされるのが必須条件であったからです。そこで昨年のゴールデンウィークには、準決勝で対戦する桜丘高校を徹底的に研究しました。その結果、2対1で完勝し、二位になることができました。今年の全国大会出場は、彼ら旧チームの自己犠牲の精神なくしてはなし得なかったと思っています。その結果、選手権大会予選では、同朋高校に準決勝で4人残しで勝ち、全国大会への出場が決まりました。全国大会では初戦で桐蔭高校と対戦し、3人残しで負けてしまいました。その間、「弱い」柔道部の時代から一緒に合宿をしてくださった光本先輩の励ましの言葉が何度も脳裏によぎりました。創部10年での全国大会出場が早いか遅いのかは私の決めることではありません。また、それが私の柔道生活の最大目標でもありません。ましてや県優勝校としての出場ではありませんので、あまり胸を張れるものではありません。しかし、大成高校の歴史に新たな1ページを加えたことには間違いないと自負しています。

 こうして振り返ると、とても順風満帆などとは言えませんが、大学時代に巡り会った良き先生、良き先輩のおかげで、たいへん幸運な14年間を過ごしてきたかと思います。そして、次の10年で必ず県で優勝し、全国で名を上げようと、思いを新たにするとともに、甲南大学柔道のOBとして、「甲南柔道魂」を全国に見せてやろうと決意しています。

 

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