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年2回の武道館

昭和三年卒 奥村亥久男

イチローってすごいアスリートだと思いませんか?今年の活躍には本当に驚かされました。イチローは試合で打っても打たなくてもそんなに喜んだり落ち込んだりしない選手なのです。

なぜなら彼にとって大切なのは、試合における安打数や盗塁数よりも、プレイボールで試合が始まるまでに、どのくらいの充実した準備ができているかが大切なのです。彼はその日の試合が終わった時、明日の試合の準備が始まります暴飲暴食は避け、カロリーバランスのとれた食事、十分な睡眠と休養。そこに打撃練習、守備練習が入り、十分な満足を持ってきょうの試合に臨みます。『野球がうまくなりたいと思う心』を常に持つことができるかが大切なことで、結局は細かいことの積み重ね以外ないのだろうと言っております。

 私たちも日々の仕事において同じことが考えられます。大きなイベントのために何年も前からタイムスケジュールが決まり、その一刻一刻が刻まれてゆくプロセスの中で、もうそのイベントが成功するか失敗に終わるか、結果は大体見えてくるものではないですか。

アスリートでなくても、それが大工さんでも板前さんでも一番大事なのは仕込=準備なのです。

部員諸君も一年間の短期目標と数年後の長期目標を持ち、一歩一歩、あせらず、あきらめず目標に向かって登っていってください。きっと何かが見えてきます。

 木枯らし一番の吹く十一月十三日、東京目白の学習院大学で定期戦があり、その終了後、四年生から『竹蜻蛉に何か書いてください』と依頼があったのでイチローのことを書いてみました。

 甲南大学を卒業してしばらく柔道部と離れていた私ですが、子供が学習院に通うようになってから柔道部の応援に来るようになり、OB会にも参加する機会が多くなりました。

現在、学習院は部員が少なく苦労しておられるようです。

前学習院長の嶋津先生(本嶋津藩主)が鹿児島に帰られる途中、甲南によられ、団体戦を闘ったのが第一回と聞いていますが、それから数え、今年で五十回目を迎えるこの定期戦は、絶えることなく、いつまでもずっと続けてほしいと思います。定期戦の後、甲南OBと学習院OB五人で交歓会が開かれました。昭和五十九年卒の西台君、山中君、平成六年卒の塩崎君、曽我部君、そして平成八年卒の寺本君、大本君も学習院の同期生と交流を絶やさず、いまだに交際していることには大変驚かされ、嬉しく思いました。

我々は神戸を離れ、東京に住んでいるからかも知れませんが選手達が全国大会に出てきてくれることは本当にうれしいことです。東京OBでは長老格で昭和三十三年卒の吉留さん(七〇歳)からみれば部員たちは子供か孫のような年(ご本人の弁)でその後輩が甲南大のマークを付つけ、日本武道館で戦う姿を見ると感無量です。

関西ベスト6で全国大会に出場された昭和37年の大会以来、全国大会には縁のなかった甲南をここまで強くして頂いた山崎先生には大変感謝いたします。

 OB会とは柔道部を強くするために存在するもので、東京にいて我々は学生たちにどのようなことができるのかと考えます。東京遠征の度に大谷さん(昭和三五卒)は物心ともに大変な援助をしてくださり、このような方々のお力添えを得て、少しでも部員たちの力になればと考えております。

 選手諸君、全日本柔道大会と体重別個人戦には必ず出場するように頑張ってください。君たちに会えるのは年2回だけなのです。東京のOBは武道館で会えるのを楽しみに待っています。

 

 

自分の柔道人生

平成十四年卒 文学部 小島 宏之

「もうこの竹蜻蛉も書くことはないのではないか」と思い、四回生の時に自分の学生時代の思い出を存分に書いた記憶があります。またこうして、大好きな甲南大柔道部に接することができて、とても嬉しく感じ、また感謝の念に耐えません。書面ではありますが、お礼を述べさせて頂きます。ありがとうございました。

さて、現在私は母校星城高校に勤務しています。毎日生徒と一緒に朝トレをし、授業をし、午後はまた柔道で汗を流す、という生活サイクルです。教師を三年間やってきて正直「なんて大変な職業なのだろう。」と毎日思いました。生徒のこと、学校のこと、クラブのことそれらを一年の流れの中で平行して行うことは、当初は何が何だか分からないまま、ただやっているという感覚でした。さすがに、仕事がなかなかうまくいかない時がありました。しかし、自分の失敗に気付き次に活かしていくと、少しずつ軌道に乗って行きました。年を重ねるごとに、当たり前のことかもしれませんが着実に一歩一歩進んでいます。人間、プレッシャーに勝ってこそ成長があると私は思います。自分自身にそのプレッシャーをかけて、また何事も勉強であるという探求心を持ってこれからもがんばっていきたいと思います。子供の数の減少傾向、犯罪の低年齢化、低学力化など様々な問題が露呈してきている中で、現場は厳しくなると予想されますが、一度自分がやろうと決めた職業、常に、毎日の試行錯誤と前向きな気持ちを忘れず、精進していきたいと思います。そして、そんな今の自分を作っている「柔道」、柔道を通して人間育成をしてくれた恩師の方々に感謝の気持ちを心から表したいと思います。

私は、保育園の年長から柔道を始めた。近くの道場に親父に無理矢理連れて行かれたことを覚えている。道場の脇に親父と隣同士で座り、二時間半の練習を見ていた。肥満体質ということもあり、最初は「とりあえずやってみるか。」という軽い気持ちでいた。練習に行くと、受け身や寝技の補強(えびや伏臥前進など)、回転運動など基本的な動きを教えてもらい乱取りに入るようになると、予想以上にきつかった。頭の中は「こんなしんどい練習もう嫌だ。」という気持ちでいっぱいで何度もズル休みをした。当然同い年の子たちにはどんどん追い越されていった。

ある時、同い年の子が私よりも強かった為、レベルの高い試合に出場し、私は重なっていたレベルの低い方の大会に出場した。いつも勝つことができなかった子がいなかったので、心の中では「いけるかもしれない。」とその時は思っていたのだろう。案の定試合は調子よく決勝まで進んだ。決勝は袈裟固めだったと思う。一本勝ちして優勝することができた。その時「自分もやればできるんだ。」と、思うことができた。そうして自分の柔道に対する意識が変わった。何かのきっかけをつかむことの大切さがこうも人を変わらせるのかと、自分自身驚くぐらいの変貌ぶりだった。

 柔道の基本、厳しさを温かみを持って指導してくださった大石先生、本当にありがとうございました。

 中学生になり道場からの流れでメンバーもほとんど変わらず柔道をするにはとても適した環境であった。先輩たちの後ろ姿に引っ張られ「自分たちの代も絶対に全中に行くんだ。」と元気いっぱいの中学生らしい柔道をしていた記憶がある。このころからチームとして一つにまとまる重要性を学びつつあったと思う。中学で主将をし、以後高校、大学と同じ役をやらせてもらう。エゴと思われるかもしれないが、自然と自分が引っ張らなくてはという気持ちが芽生えてきた。私には「これ」という得意技ができなかった。本当に得意技のある人をうらやましく思う。唯一負けない自信があるのは、気持ちの持ちようでしかなかった。とにかく一本背負いに入ったら意地でも裏返しに行く。もつれたら絶対相手の上になる。など、そんな地味なものだ。でも、当時私は勝負で一番大切なのではないかと思った。だからそんなエゴイズムが働いてしまった。

 しかし、それが自分の高校時代の最高の思い出となる。

 「死に物狂いだった」

 この一言以外に思い浮かばない。ただ必死だった。レギュラーになれないとも耳にした一時間多くやった。寝技の時間はほとんどなく、立ち技だけの練習が多かった。打ち込み、乱取りに精いっぱい取り組んだ。ほかの部員には嫌味なことも言われた。前述にもあるように切れる技がない自分には気合いだけだった。自分の気持ちを大切にし突き進んだ。

中学時代、県でベスト4に入った人間が一か所に集まりレギュラー争いにしのぎを削った。

 後、春の高校選手権、京都府城陽市で行われたインターハイに何とか選手として使ってもらうことができた。

 夏のインターハイは個人での出場は果たせなかった。それだけ団体での上位進出を目標に臨んだ。予選リーグは山形工業と清風だった。鍵は山形工業を戦で、私は大将におかれた。自分のとこに来るまでに二対一とリードしていた。試合が始まった。相手は自分よりも一回り大きい選手で特に技はうまくなかった。とにかく自分の柔道を心がけ「先に先に」と技を応酬した。相手は二回か三回肩がはずれた。その度自分ではめなおした。その精神力には驚いた。決め手のないまま終わるかと思った。自分が小内巻きこみをかけた、その瞬間相手は私の腰に抱きつき思いきり裏投げをしかけた。私は天井を仰いでいた。

「一本それまで」

残り時間三秒。涙がとまらなかった。試合に負けた悔しい気持ちとともに共に闘ってきた部員に対する申し訳ない気持ちでどうしようもなかった。今まで嫌味も言われたが、その時だけは言われなかった。清風戦は一対〇で勝ったが、星城は予選落ちとなった。

 しかしこの敗戦が自分を変えてくれました。残り時間三秒でも逆転できること、されること。私の体験よりも昨年のアテネ五輪での女子の横澤選手が残り一秒、袖釣り込み腰で一本勝ちしたことの方がテレビ放送もあって記憶には新しいかもしれませんが・・・。最後まで諦めないことが大切なんだと。

 高校の恩師松岡先生、田中先生は、常に、勝ち負けではないこと、いかに一生懸命に取り組むか、柔道かとして恥ずかしくない人間の在り方を教えてくれました。この教えが大学で活きました。ありがとうございました。

 平成十七年に甲南大学柔道部を卒業していこうとする皆は、私が四回生の時の一回生にあたります。このたびはご卒業おめでとうございます。甲南高校柔道部員入部の流れに拍車をかけた学年でもあると思います。大成高校からも有力な選手が入り、毎日、レギュラーの座をおびやかす存在になるのではないかと危機を感じていました。二・三回生もガッツがあり、ユーモアにも溢れていました。そんな部員達に囲まれて活気あふれる練習の日々を送れたことが鮮明に頭の中に残っています。

 高校生の時になかなか思うように結果が出せなかったことに悔しさを感じていました。毎日毎日苦しい稽古に耐え、精一杯やってきたつもりなのに、どうしてなのだろうと悩みました。そんな時甲南大学のお誘いを頂きました。そして地を神戸市に移し、心機一転し、充実した毎日を送りました。「柔道」漬けの毎日でした。先輩たちに毎日くらいつき、自分なりに精いっぱいでした。現役の先輩や自分と入れ替わりの先輩と練習することはきつかったですが、いつもどういうふうに倒してやろうかと考えていました。恐縮です。しかし、そのように前向きな考えになれたのは、先輩たちの力強く、逞しい姿が皆を引っ張ってくれたからだと思います。そんな先輩方と練習ができたことにとても感謝しています。

 学生時代、自分の一番の思い出は、第三回関西体重別団体です。私が入学する前、初めて同志社大学に勝利し関西ベスト8になれたと聞きました。今回も何か運命を感じさせる組み合わせでした。試合が来るまでの間、みんな一つにまとまり充実した練習内容になっていたと思います。実際に試合を迎え、皆の気の張り方、顔つき、など「よし、いくぞ。」という雰囲気があふれていました。勝利を勝ち取った瞬間のあの大歓声を今でも忘れはしません。

 私は甲南大学に入学し数え切れないほどの思い出を作ることができました。それは多くの先生方と先輩方のご指導によるものです。感謝すること、謙虚な姿勢をもつこと、毎日が勉強であること、柔道では力の入れ方、リラックス法、様々なことを山崎先生からおそわりました。植村先生にも一人暮らしの自分に温かく接してもらいました。先輩方にも多大な助力を頂きました。名前は省略させていただきますが、多くの方にたくさんのアドバイスを頂きました。関西圏、四国、地元愛知、岐阜、関東などどこへいっても甲南の先輩方がおり、甲南魂を発揮されていてとても励みになります。

「世界に通用する紳士たれ」

私の場合はまず「世間」からですが、この言葉を大切にし、甲南イズムを胸に秘め頑張っていきたいと思います

 まだまだ書きたいことが次から次へとあふれ出てきます。今までの自分の柔道人生は自分なりにとても充実していたと思います。しかし、これからがまた新たなスタートと私は感じます。

 乱雑な文章ではありますが、現役の皆さんに何か少しでも共感していただけることがあれば私は幸いです。私の大好きな甲南が益々発展し、そして柔道部がさらに強くなって関西で、全国で活躍できるよう心から願っています。

 終わりにこのような乱筆をお許しください。

 

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